「パヨク」とネットに書く人のための豆知識【日経ビジネス】
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引用元: ・【ネトウヨ必読!】「パヨク」とネットに書く人のための豆知識【日経ビジネス】 [718678614]
(文中敬称略)
「インターナショナル」という歌がある。
1870年、フランス帝国(この時フランスは第2帝政期)とプロイセン王国(領土はかなり異なるのだが現在のドイツ)との間に勃発した普仏戦争は、翌1871年にプロイセンの勝利で終結する。結果、フランスではナポレオン3世による第2帝政が崩壊し、地域国家が林立していたドイツでは統一国家建設の機運が盛り上がって「ドイツ」という国が成立する。
フランス第2帝政が崩壊した際の一時期、フランス全土で「コミューン」と呼ばれる自治組織が立ち上がった。
パリ周辺ではパリ・コミューンという自治政府が一時的に成立した。担い手となったのは第2帝政期に徐々に力をつけてきた労働者の組織、つまり労働組合である。
●労働組合は折れず
このあたりの歴史は大変錯綜(さくそう)していて、なかなか要約が難しいのだが、1870年9月のセダンの戦いでフランスは敗れ、皇帝ナポレオン3世は捕虜となってしまう。プロイセンは翌1871年1月にヴェルサイユに入城。同年1月8日に、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム2世の皇帝即位式を実施し、ドイツ帝国が成立する。フランス側は臨時政府を組織して1月末にドイツと休戦協定を結ぶ。さらに同年5月にはフランクフルト講和条約により、アルザス・ロレーヌ地方の割譲と賠償金支払いを条件にドイツ帝国と講和した。アルザス・ロレーヌの割譲から生まれたのが、アルフォンス・ドーデ(1840~1897)の短編小説「最後の授業」だ。
臨時政府による講和に対して、フランス大衆、特に労働者階級は納得しなかった。休戦協定からフランクフルト講和条約に至る時期、労働組合は、ドイツに対する徹底抵抗を叫んで臨時政府と対立し、フランス国内は混乱する。その混乱の中で、労働者によるパリ周辺の自治政府として成立したのがパリ・コミューンだった。
パリ・コミューンは、1871年3月から5月にかけてのわずか2カ月存続したのみで、ドイツの支援を受けたフランス臨時政府の攻撃を受けて崩壊する。パリ・コミューン関係者の多くは殺害されたり、捕縛・処刑された。その後、フランスは第3共和政に移行する。
ところでこのパリ・コミューンこそ、史上初めての社会主義・共産主義政体なのである。
たった2カ月の間に、パリ・コミューンは、集会の自由、結社の自由、言論の自由、信教の自由、政教分離、婦人参政権、生活保護など各種社会保障という、今となっては当たり前だが当時としては先進的な政策を打ち出した。それはコミューン崩壊と、それに続く虐殺と弾圧によって消えてしまったが、19世紀末から20世紀にかけての主に欧州、さらには世界全体の政治情勢、社会情勢に大きな影響を与えた。
20世紀における人権の確立と拡大は、パリ・コミューンが打ち出した政策から始まる、と言ってもいい。
「インターナショナル」は、このパリ・コミューンから生まれた歌だ。作詞したのはパリ・コミューンに参加していた詩人のウジェーヌ・ポティエ(1816~1887)。パリ・コミューン崩壊後の逃避行中に詩を完成させた。その後彼は英国に亡命し、フランスからは欠席裁判で死刑判決を受ける。
当初、ポティエの詩はフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のメロディーで歌われていた。つまり替え歌だったのだ。ポティエの死後、1888年になってベルギーの作曲家にして社会主義活動家だったピエール・ドジェーテル(1848~1932)が詩にメロディーを付けたのが、現在の「インターナショナル」である。
この歌はその後、社会主義運動、共産主義運動の象徴となり、1918年から1943年にかけては旧ソ連の国歌として使われたりもした。
ところで、なぜ、社会主義運動、労働運動の歌のタイトルが「インターナショナル(国際的)」という形容詞なのであろうか。
それは、1864年にロンドンで創立された世界初の労働者の国際組織「国際労働者協会(International Workingmen’s Association)」が、通称Internationalと呼ばれたからだ。
産業革命以降、第2次産業労働者の過酷な労働環境が問題となり、19世紀前半になって欧州各国では労働運動が始まる。
後に「資本論」として集大成されることになる経済学者・思想家のカール・マルクス(1818~1883)の業績も、産業革命以降の社会の変化を経済の側から把握しようという試みだった。
「なぜ、巨大な富を得る資本家が現れるのか。なぜ労働者はかくも悲惨な境遇に甘んじねばならないのか」という疑問を、マルクスは「そもそも資本主義社会にはそのようになる仕組みが内包されている」と分析したわけである。
労働者の悲惨な生活が、社会の仕組みによってもたらされる以上、労働者の地位向上には社会の仕組みを変えなくてはいけない。
ここで初めて、「労働者の国際的連帯が必要」という発想が立ち上がる。
徹底的に排除すべし
●画期的だった国際連帯
それまで、欧州には「どこそこの領民」という意識しかなかった。国民国家の成立で「どこそこの国民」という意識が芽生えるが、まだそれは地域と場所と宗教、そして場所に根付いた言語や文化などによる区分である。
が、産業革命によって社会に資本家と労働者という区分が生まれた。資本主義のダイナミズムによって出てくる区分なので、資本主義の国ならばどこでも発生する。どこにでも労働者がいるのなら、労働者の地位向上には、国境を越えて労働者が団結する必要がある。同じ仕組みによってもたらされる悲惨は、同じ境遇の者が国境を越えて団結し、はね返さねばならない。
その理念の下に設立されたのが、国際労働者協会であり、その略称がインターナショナルだった。
つまり、19世紀後半において、国際的な労働者の連帯組織が立ち上がるということは、文字通りに画期的なことだったのだ。だからこそ組織の略称が「インターナショナル」になったのだし、労働者を鼓舞する歌の題名が「インターナショナル」となったのである。
インターナショナルこと国際労働者協会は、19世紀前半の欧州における社会格差拡大とそれに対抗する労働運動の高まりを受けて、1864年に設立された。設立集会にはマルクスも参加しており、創立宣言を起草している。創立宣言でマルクスは、産業革命による経済成長による富の増大が、中産階級(ブルジョワジー)に集中し、末端の労働者は貧困の淵に沈んでいることを指摘し、その解決策として労働者は団結して政治的影響力を持ち、国家の意思決定に参加することで格差是正を進めるべきだ、とした。
1871年のパリ・コミューン成立にあたって、国際労働者協会は、パリ・コミューンを支持する声明を出した。
しかしながら、国際労働者協会は、様々な意見を持つ者の集合体で、内部には深刻な意見対立が存在した。労働者の地位向上といっても、そのために何をすべきかでは大きな路線の違いがあったのだ。特に社会主義と無政府主義の対立は深刻だった。このため、だんだん組織としては機能不全に陥っていき、1876年に、国際労働者協会は解散してしまった。
「労働者は国境を越えて国際的に団結せよ」と言いつつ、内部の路線対立は調停できなかったのである。
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