イスラム教シーア派の聖職者であり、イランのイスラム革命で裏方として役割を果たし、1980年代に2期にわたって大統領を務め、最高指導者として30年以上もイランを支配したアリー・ハメネイ師。
彼はイスラエルと米国がイランに共同攻撃を開始した2月28日に死亡した。86歳だった。
ドナルド・トランプ米大統領はSNS「トゥルース・ソーシャル」への投稿でハメネイ師の死を発表し、同師を「歴史上最も邪悪な人物のひとり」と呼んだ。
トランプは作戦終了後にイラン国民に向けて「自分たちの政府を掌握せよ」と公に呼びかけた。トランプはそれ以前にも、12月に深刻な経済危機をきっかけに大規模な反体制デモが勃発した際、イラン国民に蜂起を促し、米国の支援を約束していた。
デモはイランの根深い神権体制そのものに対する大規模な抗議へと拡大し、かつてはタブーとされていた「ハメネイに死を!」というシュプレヒコールが全国各地のデモ行進で聞かれるようになった。
治安部隊は血みどろの弾圧に乗り出し、6800人を超えるデモ参加者を殺害し、数万人を拘束。ハメネイ師はこの惨事の責任をトランプに転嫁し、米軍による支援を約束してデモ参加者を「公然と煽った」 「犯罪者」だと非難した。
イスラム革命の精神的指導者であり、米国の支援を受けた王制に対する革命を鼓舞した禁欲的聖職者ルーホッラー・ホメイニの初期の信奉者として、ハメネイ師は米国とイスラエルに断固として反対し、西洋の「リベラリズム」を拒絶し、原理主義的な社会政策を厳格に貫いた。
1989年にホメイニの後継者としてイランの最高指導者に就任して以来、ハメネイ師はイスラム共和国における最終的な政治的・宗教的権威を握った。
選挙で選ばれた大統領よりも上位に立ち、軍、治安機関、司法、国営メディア、外交政策を統括してきた。
2015年7月、米国を含む6つの世界大国との間で結ばれた画期的な核合意──イランの核開発計画を制限する代わりに壊滅的な経済制裁を緩和する──についても、ハメネイ師が最終的な決定権を持っていた。
2022年9月、イスラムの「道徳警察」に服装規定違反で逮捕された若い女性が拘束中に死亡したことをきっかけに、イラン全土で広範な抗議活動が起きた際、ハメネイ師は公に米国とイスラエルの仕業だと非難し、致命的な弾圧を支持した。「暴動」の背後にある「外国の手」がなぜ見えないのかと不思議がった。
もじゃもじゃの白い髭と穏やかな笑顔を持つハメネイ師は常にしかめ面だったが、はるかに崇拝されていた師ホメイニに比べ、より親しみやすい印象を人前で与えた。ペルシア文学や西洋の古典小説──とりわけヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』──を好んでいたことでも知られる。
しかし、妥協を知らないホメイニと同様、国内での政治的・社会的改革を推進しようとする穏健派の取り組みや、米国との関係改善に反対した。
ハメネイ師が最高指導者になる前に彼を知っていた一部のイラン人は、彼を「隠れ穏健派」と評したと、カーネギー国際平和基金のイラン研究の第一人者カリム・サジャドプールは2008年の研究で記している。
だが、額面通りに受け止める人々もいたとサジャドプールは述べる。すなわち、「深く信心深く、イデオロギー的に硬直し、反米的な聖職者であり、その政治観は1979年の革命の反帝国主義的な高揚のなかで止まっている」人物だと。
最高指導者としての統治が20年を超えた頃、イランはますます抑圧的になった。とくに治安部隊が、2009年のマフムード・アフマディネジャド大統領の再選をめぐる争議に対するデモを鎮圧した後は顕著だった。
「公平で寛大な指導者」というハメネイ師のイメージは崩壊し、「狭量で党派的な独裁者」の姿が露わになったとサジャドプールは書いている。イスラム聖職者よりも、はるかに情報機関や治安機関、軍事機構に依存する人物の姿だ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1aacd0b51bef74fbbfa7d77d1aa8741af2d0b8ab
引用元: ・【35年にわたり君臨】殺害されたイラン最高指導者ハメネイ師 その生涯と権力の軌跡
世界的な指導者を殺害するとは
問題はなかったのか。
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