【文春】「たとえ、胸の傷がいたんでも」ではない“もうひとつの歌詞”…やなせたかしが「アンパンマンマーチ」に“死の暗示”入れた理由
【文春】「たとえ、胸の傷がいたんでも」ではない“もうひとつの歌詞”…やなせたかしが「アンパンマンマーチ」に“死の暗示”入れた理由
3/9(日) 6:12 文春オンライン
https://news.yahoo.co.jp/articles/f9e22530fc83f79d60cc4d183acc27aeaf06ced8
〈そうだ うれしいんだ/生きる よろこび/たとえ 胸の傷がいたんでも〉
アニメ「それいけ!アンパンマン」の主題歌として、やなせたかしが書いた「アンパンマンのマーチ」。誰もが口ずさめるこの歌詞は、当初は後半の言葉が異なっていたという。〈たとえ いのちが終るとしても〉
子ども向けにもかかわらず、死を暗示する表現だったのはなぜか。梯久美子さんの新刊『やなせたかしの生涯』は、その謎を追い、不世出の漫画家の人生を辿る。
「もともと“詩人・やなせたかし”のファンで、やなせ先生が創刊した『詩とメルヘン』の編集者になった私は、先生が“アンパンマンの人”とだけ言われることは嫌だった。でも、この詞の異同に気付いて、アンパンマンに込められた思いを考え直そうと思いました」
柳瀬嵩(たかし)は、1919年、高知県に生まれた。幼い頃に新聞記者の父と死別。母は再婚するため、嵩を開業医の伯父の家に預けたが、そこではすでに2歳下の弟が養子に入り、跡継ぎとして大事に育てられていた。嵩は居候として引け目を感じて育つ。絵の勉強のため、東京に進学するが、陸軍に召集され、中国戦線へ。復員後、高知新聞社に就職、創刊された『月刊高知』の編集者となる。のちに妻となる小松暢(のぶ)は同僚だった。
「『月刊高知』は政治家のインタビューや『アメリカ二世を囲む座談会』など新時代を映す企画、やなせさんが絵を描いた双六が附録についていたり、と充実した総合雑誌でした。作り手の若者たちの生き生きとした青春がそこにありました」
一方で、彼らが生きた占領下の日本が点描される。嵩の描いた6コマ漫画が、GHQの検閲に引っ掛かり、警告書が届いた。取材に訪れた東京の空には、B29の編隊が飛んでいた。
「上京する際に、靴下に米を入れていった、なんて聞いても今の人は分からないですよね。この時代の人の共通体験を描きました」
そして、彼らの胸の傷も、昭和史の重さも――。梯さんは言葉を継ぐ。
「やなせ先生は戦争が嫌いでしたが、軍隊には順応し、正義のための戦いに命をかけることにヒロイックな高揚感すら感じていた。でも戦後、すべてが“侵略”とされ、信じていた正義は逆転してしまった。自分たちはなぜ戦い、なんのために死んだのか。優秀だった弟が戦死し、自分が生き残ってしまったことにもやなせ先生は懊悩します」
生きるよすがは、自ら見つけるしかない。嵩を励ましたのは他ならぬ弟だったのではと梯さんは見る。
「先生は養父母に愛される弟に嫉妬したが、弟は弟で家を継ぐことに苦しみ、自由に生きる兄に憧れていた。出征前に弟が遺した“ぼくはもう死ぬが、兄貴は生きて絵を描いてくれ”という言葉に背中を押されたはず」
再び、漫画家を目指す。高知新聞を辞めて上京。人の好さと器用さで仕事は増えていったが、長い不遇の時代を過ごすことになる。
「気弱で自信のない彼を引っ張ったのは妻の暢さん。とにかく元気で前向きな女性でした。人生の決断は大体暢さんがしています」
そして、手塚治虫との邂逅が嵩の運命を変える……。「先生の人生には、困ったときに力になってくれる人が不思議と現れる。すごくドラマチックです」と梯さんは目を細める。
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
引用元: ・【文春】「たとえ、胸の傷がいたんでも」ではない“もうひとつの歌詞”…やなせたかしが「アンパンマンマーチ」に“死の暗示”入れた理由 [湛然★]
答えられないまま終わる そんなのは嫌だ
↑これもう古くね
今は「生きるのに意味なんていらない」が正解になってる
答えられてるじゃん
ケンシロウ
サガット
アンパン
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